日本の首都といえば東京、その前は京都。そして京都の前には、奈良に都がありました。
本格的な都が置かれたのは奈良・藤原京。藤原京の前は、飛鳥の地を転々としていたのです。奈良の歴史は、実は驚くほど長いのです。
そしてこの夏、うれしいニュースが飛び込んできました。2026年7月26日、韓国・釜山で開かれた第48回世界遺産委員会で、「飛鳥・藤原の宮都」が世界文化遺産に登録されることが決定したのです。日本国内では27件目の世界遺産です。この飛鳥・藤原の地を拠点にしているきよらトラベルとして、誇らしい気持ちになりました。
ここで、日本のはじまりについて少し歴史に触れておきましょう。
東京の前は京都、京都の前は奈良―忘れられがちな古都の履歴書
観光で日本を訪れる方の多くは、まず東京、そして京都を目指します。千年の都として知られる京都は、たしかに日本の歴史を語るうえで欠かせない街です。
けれど、その京都に都が遷る前、実は奈良にこそ日本最初の本格的な首都が置かれていたことは、意外と知られていません。奈良・藤原京がそれです。そしてさらにさかのぼると、藤原京が造られる前は、天皇が代替わりするたびに宮(みや)を飛鳥の地の中で転々と移していました。
つまり、日本という国の歴史をたどっていくと、東京よりも京都よりも先に、飛鳥・藤原の地にたどり着くのです。
2026年7月、世界遺産に登録された「飛鳥・藤原の宮都」
今回登録が決まった「飛鳥・藤原の宮都」は、奈良県の明日香村・橿原市・桜井市にまたがる19の構成資産からなります。飛鳥宮跡や藤原宮跡といった宮の跡地に加え、高松塚古墳やキトラ古墳、石舞台古墳といった、極彩色の壁画や精巧な石室で知られる古墳群も含まれています。
この一帯が評価されたのは、単なる古い遺跡としてではありません。それぞれ力を持っていた豪族たちが、やがて天皇を中心とするひとつの統一国家「日本」としてまとまっていく、その成立の過程そのものを物語る資産群として評価されたのです。飛鳥時代から藤原の時代にかけて、東アジアとの文化・技術交流を通じて律令制度や国家の仕組みが整えられていった、いわば日本という国の設計図が生まれた場所。それが飛鳥・藤原なのです。
豪族の時代から天皇中心の国家へ―日本という国のはじまり

かつてこの国には、それぞれの地域で力を持つ豪族と呼ばれる人々がいました。それが少しずつひとつにまとまり、大和と呼ばれたこの地で、天皇を中心とする中央政権がかたちづくられていきます。
面白いのは、当時の宮の在り方です。天皇は神の血統を受け継ぐ神聖な存在とされていたため、その死は特別に重い穢れ(けがれ)と考えられていました。そのため天皇が亡くなると、新しい天皇は宮を別の場所に移して即位する、という慣わしがありました。後を継ぐのは息子と定めることで、位をめぐる争いを避ける工夫もされていたようです。
宮の場所を選ぶ際には、占いも重要な役割を果たしていたと言われています。科学がまだ発達していなかった時代、人々は水の流れや太陽・星の動きといった自然の兆しを注意深く読み取り、そこから方角や吉凶を占っていたのでしょう。政治の重要な決めごとの多くが、こうした自然への感受性の延長線上にあったのだと思うと、当時の人々の世界の見方に触れるようで、少し胸が高鳴ります。
こうして代替わりのたびに移された宮の多くが、飛鳥の土地に置かれていました。
明日香村に眠る宮の跡―今も続く発掘と新たな発見
現在の明日香村を訪ねると、こうした宮の跡が数多く残されています。
面白いのは、この発掘がまだ終わっていないということです。村のどこかで新しい建物が建てられるとき、その工事のさなかに新たな遺構が見つかることが今も少なくありません。1300年以上前の営みが、ふとした拍子に地面の下から顔を出す。明日香村を歩いていると、そんな「現在進行形の歴史」を肌で感じることができます。
飛鳥に点在する石たち―巨石・切石が語る技術と信仰
飛鳥を訪れると、あちこちで不思議な石に出会います。飛鳥・藤原の地には、巨石や切石を用いた遺構がとりわけ多く見られるのです。
古墳の石室や石棺、寺院の跡、そして広場や水路にも、さまざまな石が用いられてきました。中には、謎めいた形をした石造物や石仏も現れます。近隣で採れた石もあれば、かなり遠方から運び込まれたと考えられるものもあります。
こうした石は、単なる建材ではありませんでした。この土地の人々の日々の暮らしや、庶民の信仰とも深く結びつき、さまざまな技術によって加工され、大切に維持されてきたのです。
酒船石の謎―今も解けない古代の石造物

飛鳥の石造物の中でも、とりわけ興味深いのが酒船石(さかふねいし)です。
長さ約550センチ、幅約230センチ、厚さ約100センチという大きな石英閃緑岩の上面には、複雑な溝と窪みが刻まれています。東端には半円形の溜まり、中央には楕円形の溜まりがあり、そこから三方向に伸びた溝が、左右で分岐しながら円形の溜まりへとつながっていく、精巧な造りです。
1927年に国の史跡に指定されて以降も、周辺からは新たな発見が続きました。平成4年には丘陵の東側で山の石垣が、平成10年にはすぐそばから亀の形をした石造物が見つかっています。
これほど手の込んだ石造物でありながら、いまだにその用途は明らかになっていません。酒の醸造施設だったという説、油を絞るための施設だったという説、砂金を選り分けるためのものだったという説、辰砂(水銀朱)を精製する施設だったという説、あるいは曲水の宴(水に盃を浮かべて楽しむ宴)の場だったという説まで、実にさまざまな仮説が唱えられてきました。しかし、どれも決定打には至っていません。
千年以上前の人々が、これほど精巧な石を何のために作ったのか。答えの出ない問いを前にすると、かえって想像がかき立てられます。
藤原京という到達点―中国とは違う道を選んだ都のかたち

代替わりのたびに宮を移す時代を経て、藤原京は日本ではじめて条坊制(碁盤の目状に区画された都市計画)を本格的に採用した、恒久的な首都でした。
ここで興味深いのは、宮(天皇の住まいと政治の中枢)が置かれた位置です。のちの平城京や平安京では、宮は都の北側に配置されました。ところが藤原京では、宮は都のほぼ中央に据えられていたことが発掘調査でわかっています。これは、同時代の唐の都・長安の様式をそのまま模倣するのではなく、より古い中国の古典『周礼』考工記が説く理想の都のかたちを参考にしたためだと考えられています。つまり藤原京は、当時の大国・唐に対して、あえて独自の道を選んだ都だったのです。
代替わりのたびに宮を転々とさせてきた時代から、ひとつの場所に根を張る恒久的な都へ。藤原京は、日本という国のかたちが定まっていく、その到達点だったといえるでしょう。
世界遺産となった今、飛鳥・藤原を訪ねる
世界遺産に登録されたことで、これから飛鳥・藤原を訪れる人はきっと増えていくはずです。けれど、この地の本当の魅力は、教科書的な説明だけではなかなか伝わりません。
答えの出ない酒船石を前に立ち尽くす時間。今も発掘が続く明日香村の空気。中国とは違う道を選んだ藤原京の設計思想。そうしたものは、実際にその場に立ち、話を聞いてはじめて輪郭を帯びてきます。
きよらトラベルでは、奈良・飛鳥・藤原を拠点に、世界遺産となったばかりのこの地を、その背景にある物語ごとご案内しています。日本という国がどのように生まれたのか、その始まりの地を、ぜひ一度歩いてみませんか。興味のある方は、お気軽にお問合せください。